Wrangler Magazine – History

Prologue

ラングラーが誕生したアメリカは、大陸を東から西へと開拓して生まれたフロンティアの国でもある。西へとムーブする開拓の歴史の中で、移動手段としての幌馬車が生まれ、大陸横断鉄道が開通された。開拓された拠点に辿り着いた者たちは、その町を第2の故郷として住み着く者たち、その地を後にしてさらに移動する者たちとに分かれた。そして、住み着いた者たちの有した技術により、それぞれに独自の産業がおこり町は街へと発展していく。フロンティアーズたちがおこした産業は、農業、放牧、鍛冶屋、家具製造など身体を資本にしたものが多かった。

 フロンティアの荒野がまだ残る時代の生活において、労働衣料は住む家、毎日の糧となる食料とならび欠かすことのできないものだった。ワークウエアに求められたのは、まず頑丈なことだった。それは過酷な労働にもへこたれない耐久性、そして身体を守るという意味があった。また、身体を締め付けずにワーカーが行う縦や横の動きにスムーズに対応できることも重要な条件だった。そして時の流れと共に、農場労働者、工場労働者、鉄道労働者など用途に分けたワークウエアも開発されていくようになる。

 つまりワークウエアは、アメリカを底辺の部分から身体をはって支えた男達と共にアメリカという国を造ってきたと考えられる。

 そして、ラングラー・ジーンズのストーリーを紐解くとき、そのルーツに幾多のワークウエアメーカーの創業、そして統合を繰り返して生まれたアメリカ有数のワークウエアメーカー“ブルーベル”の誕生の物語と出会うことができる。

 深い歴史と時の流れの中で培われたノウハウによりラングラーが生まれたことを理解することは、ラングラーの魅力をより深く知るためは必要不可欠なことでもある。その歴史を知れば知るほど、ラングラーの誕生は、この偉大なる歴史的背景を持てば必然の出来事であったとさえ思えてくるだろう。

1889-

ラングラーの母体となるブルーベルの成り立ちには、数々のワークエアメーカーの創業と統合の歴史があるが、ルーツとなるふたつの会社のうちのひとつがハドソン・オーバーオール・カンパニーだ。創業者C.C.ハドソンが弟のホーマーを引き連れ、生まれ故郷のテネシー州ウイリアムソン・カウンティのスプリングヒル農場を後にしたのは1897年のこと。彼らが最終的に辿り着いたのは、アメリカが誇る有数のコットン生産地として名高いノースカロライナ州グリーンズボロだった。

 C.C.ハドソンは弱冠20才で、まず地元のオーバーオール製造工場で働き始める。賃金は1日25セント、職種はボタン付けだった。この工場は後に閉鎖となるが、C.C.ハドソンはその時点で数台のミシンを買い取り独立の道を歩むことになる。そして1904年、C.C.とホーマーは「ハドソン・オーバーオール・カンパニー」を設立。場所はサウスエルム・ストリートの食料品店の屋根裏部屋だった。

 ビジネスは順調に推移し、仕事場は屋根裏部屋からグリーンズボロのアーリントン・ストリートにあった古い教会に移り、農場の女性達を雇い縫製規模を拡大していく。そして1919年、社名は「ブルーベル・オーバーオール・カンパニー」と改められる。同時に、サウスエルム・ストリートとリー・ストリートが交差する角にはじめての自社工場を設けるまでに至る。

 ちなみにブルーベルの名前は、ハドソンの店の馴染み客だった鉄道員のグループから贈られたベルにちなんでつけられたという伝説も残されている。ベルは鉄道員からの信頼の証として工場に置かれ、デニム生地の裁断などで生まれるブルーの粉塵で覆われていったという。つまり、ブルーベルトは「インディゴに包まれた労働者の象徴としてのベル」という意味となる。伝説であるにしろ、とても夢のある逸話である。

 そして、ハドソン・オーバーオール・カンパニー創業の3年後、ラングラーにとって重要なもうひとつのワークウエアカンパニーがテネシー州で産声を上げていた。

1947年 機能美あふれるディテールデザイン

1947年はブルーベル社、そしてジーンズの歴史に輝かしいエポックを刻み永遠に記憶されるべき年となった。ブルーベル社は、それまでのワークエアオンリーの企画・製造から、ウエスタンウエアの分野へと打って出る決意をしたのだ。それは、ラングラー・ブランドの誕生を意味し、ブルーベル社はそれまでのスローガン「世界のワークウエアメーカー」を「世界のワークエア&カジュアルウエアメーカー」へと変更する。

 まずブランド名だが、これは1943年にケーシー・ジョーンズ社を買収したときに一緒に取得したものだった。しかし、ブランド名の決定はトップダウンではなく、社員参加で行われた。ブルーベル社の財産のひとつであったカウボーイを意味するラングラーの商標は、いくつかの候補と共に従業員の前に提示され、圧倒的な支持により選ばれたという民主主義的な背景もまたラングラー・ブランドの特徴であり、魅力でもある。

 企画には、前章で記述したハリウッド映画のカスタムテイラーであったロデオ・ベンを招いて行われた。この年に生まれたモデルが、現在ヴィンテージのラインナップの中でも復刻されている11MWである。ファーストモデルとして、そしてプロトモデルとしても知られるモデルだ。現在の完成形へとたどり着く直前、黎明期ならではのディテールデザインが、プロトタイプとも呼ばれる由縁でもある。

 例えば、ラングラーの代名詞でもあるジッパーフライはまだ採用されておらず、フロントはボタンフライ仕様であり、バックポケット上にレイアウトされたパッチは、本革を素材に用いて内巻きロゴが刻印されている。また、フロントのポケットも独特のフロントスウィングポケット仕様はまだ施されておらず、ワークウエア的なテイストが残されている。 しかし、セルビッジデニムを使用した巻き縫いのアウトシーム、7本ベルトループ、ラウンド形状のノースクラッチリベット、ウエストバンドのラインと平行してデザインされた“ロデオ・ベン・ウォッチポケット”など、現在もラングラー・ジーンズのアイデンティティとして知られるディテールデザインはすでに開発されている。

 この新たに開発された機能美あふれるディテールデザイン、そしてワークウエアの伝統的な機能デザインが融合した温かみのある存在感、これが数多くのヴィンテージマニアの心を魅了し続けている理由でもある。 ちなみに11MWの11は試作品ナンバーを示し、Mはメンズ、Wはウエスタンウエアを意味している。11MWの品番にジッパーフライを表すZが冠され、現在のラングラー・ジーンズの基本形が完成するのは、翌1948年のことである。

1950- カウボーイはアメリカンドリーム

ウボーイの実像は、1日の大半をサドルの上で過ごすハードワーカーである。それは洋書屋などで見かけるカウボーイを題材にした写真集などを開けば一目瞭然だ。顔や手に刻まれた深いシワが、その事実を物語ってくれるだろう。 その一方で、カウボーイは強い国、夢の国アメリカの象徴ともなった。そのきっかけは定かではないが、'30年代の大恐慌の頃を境にしてのこととも言えるのではないだろうか。経済の悪化による重く暗い世相に打ち勝つためのマインドツールであったのかもしれない。

 牧場主が経営悪化の打開策として企画したデュードランチ(観光牧場)には、富裕層がヨーロッパ旅行の代わりの楽しみとして訪れた。その結果、カウボーイは、観光客が過ごした休日のヒーローとして親しまれることになる。同時期に、銀幕でもカウボーイは主役を努める重要なキャラクターとして登用され、ここでもヒーローとしての虚像が作られていく。 以後、カウボーイは、映画のスクリーンの中でのヒーロー役を'70年代前半まで努めることになる。ウエスタンムービーの消滅は、1970年を前後して勧善懲悪を否定した映画が新しいムーブメントを起こしたことにより行われたと思われる。

 ラングラー・ジーンズが登場した第二次世界大戦直後から'50年代は、カウボーイがヒーローとして迎い入れられた時代のひとつのピークで、数々のウエスタンムービーが映画館のみならず、テレビでもオンエアされている。 ラングラー・ジーンズの初代デザイナー、ロデオ・ベンがウエスタンムービーを世に送り出したハリウッドの衣装デザイナーであったことも、時代の写し絵であるといえるかもしれない。 その時代にあって、ロデオ・ベンはテレビのウエスタンドラマ「ホパロング・キャシディ」の衣装デザインを担当することになる。1950年のことだ。以後、このウエアはブルーベル社のボーイズ・ブランドとしてもリリースされた。サンフォライズド加工を施したブラックツイルを素材にしたジーンズとジャケットが企画されたが、当時の広告を見ると、ラングラーのジーンズとジャケットがベースになっていることが分かる。 また、1955年にはブルーベル社はウォルト・ディズニー・オフィシャルの「デイビー・クロケット」というボーイズ・ブランドをリリースするなど、ウエスタンウエアに対するニーズに、多角的に応えていた。

 これらの事実は、ラングラー・ブランドがウエスタン・ジーンズの代名詞として認められていたこと、そして製品としての完成度がいかに高かったかを証明するエピソードとして捕らえることもできるのではないだろうか。

1960- 11MWZから13MWZへと継承されたラングラーの定番

1960年代にはいるとブルーベルは、品質の向上を追求すると共に、生産基地と販売エリアの拡大を積極的に推進した。

 そのファーストステップは、当時社長を務めたJ.C.フォックスが理事会メンバーの支持を得て決定した海外進出だった。 1962年にベルギーのヘンクに初の海外工場をオープン。ラングラー・ブランドはヨーロッパでも人気を博し、以後10年間で海外工場はマルタ島、イギリス、そしてカナダに設立された。

 また、ラングラー・ブランドへの需要拡大、1965年に兄弟ブランド、マーヴェリックをリリースしたことなどにより、国内の製造キャパを増大することも急務としてのテーマでもあった。 その施策として、1964年にはレッドキャップ・マニファクチャリング社を買収。同社は、レンタル・ランドリー・チェーンにユニフォームやワークウエアを供給することで知られるワークウエアメーカーだ。レッドキャップ・ブランドは現在も残され、キャップマークのワークウエアやユニフォームが生産されている。 さらに、1966年にノースカロライナとサウスカロライナ州に4つの工場を持つビーバー・シャツ社、アラバマ州ハックルバーグのハックルバーグ・シャツ社の買収に踏み切る。同年にはプエルトリコのコーラルマニファクチャリング社も買収し、3つの工場を有するプエルトリコ・ブルーベル社へと発展させていく。

 この生産拡大の同時期に、ラングラー・ジーンズには品質改良が加えられている。1964年のブロークンデニムの採用がそれだ。 ブロークンデニムは、特殊な織り組織によりシームのねじれを防止した生地で、生地表面に出るヨコ糸=白い糸の量が少ないので、ブルーの色が鮮やかに見えるなどの特徴がある。また当時、ジーンズにのり付けしてアイロンをかけ、折り目を付けることがカウボーイ達の間で流行っていたのだが、ブロークンデニムはのり付けしやすく、彼らの「パリッとして、こぎれいなジーンズのはき方」の作法にも応えた。

 この時期には、11MWZは13MWZへと品番を変更していくが、その最中の1964年に、シームを巻き縫いにせずオープンシームで縫製したセルビッジ仕様の11MWZが発表されたことがある。製造期間がわずか1年、そしてラングラーのジーンズには珍しいセルビッジの見えるオープンシームで縫製であることから、この[11MWZ 1964モデル]は、後にマニアの間では貴重なヴィンテージ・ジーンズとして知られることになる。

 そして1965年、ラングラー・ジーンズからブルーベルのマークが消えることになる。これは、「ブルーベルのラングラー」とアナウンスしなくても、「ラングラー」は独自のアイデンティティと信頼を得たという証でもあった。

1975 13MWZが全米プロロデオカウボーイ協会の公認ジーンズに

ラングラーとカウボーイ、とりわけロデオとの結びつきは強い。

 11MW誕生時にも、そのボディにはカウボーイのための意匠が数多く施されていた。また、1948年には、当時のチャンピオン・カウボーイのジム・ショルダースなどと契約をし、フィット感やスタイリングなどの提案を広告上でも行ってきた。(ただし、それは個人との契約であった。) その後、11MWZから13MWZへとラングラー・ジーンズの定番が進化するに従い、ロデオ・カウボーイたちからの支持はより強固なものとなっていった。 その流れの中で、全米プロ・ロデオ・カウボーイ協会(PRCA)が、ラングラーのジーンズとシャツを支援するアナウンスを出した。1974年のことだ。翌1975年には、PRCAは、13MWZを協会の公認ジーンズにも指定する。

 ロデオは、カウボーイが日々培ってきたテクニックを競技化したもので、アメリカでは伝統スポーツとして広く認知されており、そのハードな種目をこなすには、ジーンズには、頑丈さ、そして馬上の動きをサポートする機能が必要とされる。 例えば、ラングラー・ジーンズのラウンド状にデザインされたリベットは、サドルを傷付けないための機能を求めて生まれたもの。また、ベルトループにしても、バックサイドを強化した7本ベルトループは、ベルトをしっかりとキープするもの。さらに、フロントのベルトループの位置が離れているのは、大きなバックルを好むロデオ・カウボーイ達の嗜好に応えたものといえる。

 競技は、暴れ馬や牛を乗りこなす荒々しいもの、そして時間を競うスピーディな種目がある。前者には、鞍をつけた馬に乗り8秒間の間に暴れ馬を乗りこなし、さらにライダーのフォーム、馬がどれだけ激しく跳ねたかなども診査項目に入れられるサドル・ブロンコ・ライディングをはじめとして何種目かがある。サドルをつけない裸馬に乗るベアバック・ライディング、雄牛を乗りこなすブル・ライディングなど、どれもがハード極まる競技だ。

 スピードを競う種目には、樽の間をスラロームして走るバレル・レーシング、馬上から若い牛に飛びついてねじ伏せるステア・レスリング、馬上から子牛にロープをかけて、足を縛り上げるカーフ・ローピングなどがある。

 どれもが、都会のオフィスビルでのデスクワークからは想像のつかいない負担がジーンズにかかる。このワイルドな動きに耐えられるだけのタフさを持ったジーンズ、そしてライダーの動きをサポートするディテール機能をもったジーンズ。ラングラーの13MWZは、数あるジーンズの中から、そんな要求に応えた唯一のジーンズである、という証明。それがPRCAから公式ジーンズとして認められた栄誉ある史実が示すことでもある。

1980- カウボーイのライフスタイルブランド、そして世界のジーンズブランドへ

ラングラー・ジーンズは、全米プロ・ロデオ協会の公認ジーンズに正式認定されたことを象徴として、カウボーイのライフスタイルブランドとしてのポジションを強固なものとしていく。1980年代以降、そして現在もそれは変わらぬラングラー・ジーンズのアイデンティティでもある。 1979年にアウトドアテイストのアイテムをリリースし、1980年にはカウボーイをイメージキャラクターとして起用したビッグプロモーションを展開。さらに、1981年にはオートレースに協賛するなど、そのアイデンティティの幅を広げていく。

 その中で、1970年代後半に公開された映画「アーバン・カウボーイ」は、新たなウエスタンファンを生み出す原動力ともなった。当時のラングラー・メンズウエアの社長ビル・ハーベイは「ジョン・トラボルタがあの機械の牛に乗ったとき、彼はかつてなかったほどのビッグショットをジーンズインダストリーに与えた」と後に語っている。「そのとき国内市場は3億本から4億本の間を行ったり来たりしていた。映画がリリースされたあと、誰も彼もがウエスタンに夢中になって、私たちは1年で5.1億本に到達した。国民全部がジーンズをはいていたことになる」とのコメントは、当時のブームの過熱ぶりを伺い知るには充分すぎる歴史的証言だ。

 その一方で、世界のジーンズファンに向けた活動も活発化していき、日本にも1972年に上陸し、以後日本のジーンズシーンには欠かせない重要ブランドとなっている。それはヨーロッパを始めとした国々にも共通することでもある。

 また、カウボーイだけではない各界の著名人達からの支持も熱いものとなっていた。世界チャンピオン・グランプリレーサーのジャッキー・スチュワートは1970年代前半にラングラーのスポークスマンを務め、プロゴルファーのリー・トレヴィノはラングラーのリー・トレヴィノ・スポーツウエアコレクションのデザイン・コンサルタントとして有名だった。また、ミュージックシーンでは、ガース・ブルックス、ウイリー・ネルソンなどのビッグネームが、こぞってラングラーを愛用し、ラングラー・ジーンズは彼らの歌にも登場することになる。

 ブルーベルが築いたワークウエアの由緒ある歴史をルーツに、11MW、13MWZなどの名品を生み出してきたラングラー。そこには、常に働く人々の快適性を考えるというスタンスがあった。長い歴史の中で育まれてきた、このアイデンティティは今も健在で、世界のウエスタンファン、ジーンズファンのライフスタイルブランドとして愛され続けている。